ホームページ『超人類と超古代 新人類と未来』の復刻

ホームページ『超人類と超古代  新人類と未来』の復刻

光の勢力による地球革命と宇宙人さんより転載

私、光の預言天使E.T.の原点となった2004年開設のホームページ『超人類と超古代』の内容の復刻です。

地球の闇の勢力と戦っている善良な宇宙人の真実の暴露の内容なので削除されたり、潰されたりするのではないのかと思い、PCに全文保管していたのですが、結果的にそのホームページと協力者たちは2013年頃に闇の勢力に消されてしまい、内容を保存していたPCも大分前に故障してデータ発掘不能になってしまい、一部の残骸しかありません。

しかし、インスピレーションを得て今しかないと思い公開に踏み切ります。

新人類の詩
http://www.medianetjapan.com/2/20/lifestyle/mitwirkende/neuemensch/kotoba/filename.html#kiki (URL無効)

●人類の成すべき事 ●宗教 ●宗教のこの先 ●悪魔  ●悪魔崇拝 ●欲求
●社会 ●悲観論 ●脳の活動と睡眠 ●精神病 ●競争 ●探究心
●日本人 ●日本人の起源 ●天皇家の起源 ●古代日本 ●超古代
●極古代 ●歴史の偽り ●彗星への対策 ●自己思考能力 ●方舟伝説
●大洪水後の地球 ●彼の詞 ●遺伝子 ●クローン ●日本は世界の縮図
●世界地理の名称 ●ロズウェル事件 ●グレイ ●未確認飛行物体 ●警鐘
●常識 ●既得権 ●エネルギー源 ●時間移動 ●アメリカ政府との接触
●人種 ●インターネット ●存在意義 ● オカルトと科学 ●機械と電脳
●キリスト ●アカシックレコード ●ヒットラー ●予言 ●覇権主義
●救世主 ●ファティマ ●異星人の存在 ●哲学 ●教育 ●聖櫃 ●病気
●キャトル・ミューテーション ●アブダクション・ケース ●寿命 ●特異高寿命
●存在理由 ●霊現象 ●超能力 ●影響力 ●奇跡 ●超人類と彼の正体
●チャネリング ●進化論 ● 恐竜 ●種の保存と再生  ●肉食 ●祖星
●人類発祥 ●恒星の生命 ●古代文明 ●古代大戦 ●語源
●太古の地球移住計画 ●昆虫 ●薬品 ●敬う ●宇宙空間移動
●宇宙の始まり ●怨念 ●音楽 ●プレアデス星団 ●輪廻転生
●死者への弔い  ●遺伝子以外の伝達 ●天国と地獄
●有と空と無 ●愛 ●肯定と否定 ●信じること ●不平不満 ●善悪と真偽
●嘘 ●平等と区別 ●完璧な人 ●宇宙連合 ●結婚  ●貨幣経済 ●子育て
●政治  ●物との共生 ●男女の区別 ●他人の判断基準 ●個性
●月 ●龍脈 ●次元 ●生命 ●クライシス

このサイトの心髄になります。
ここには彼と私の対話の記録を残しました。
彼の話す人称代名詞は「我々」の場合と「私」の場合があります。
「我々」とは新人類及び超人類の共通の見解、「私」においては彼の個人的見解と考えております。
テープに録音したものを書き記している為、
一部実際と表現が異なる点がある事をご了承ください。
また対話の流れをそのまま記しているため、
内容が多少本題から外れる点もご了承ください。
上記一覧からリンク出来ます。

新人類の厳しくも優しい詞に人類の、そして貴方の存在の尊さを感じ取って下さい。

人類の成すべき事

人類は新たなる進化を迎える必要に迫られています。
人類がこれを拒めば、結果はお分かりになられる事でしょう。
人類は生き残る術を模索する必要があります。
人類が新たなる進化を拒む事は即ち、私利私欲に走る事や自暴自棄に陥る事なのです。
現在伝えられている人類の歴史を進歩と言えるのでしょうか?
超古代を知っている我々には、退化はすれど進歩しているとは到底思えません。
その結果が現代の精神文明の崩壊と、物質社会の到来による地球存亡の危機です。
今後、我々は時には目視できる物体として、時には思想として徐徐に世界の人類の前に現れます。
我々の理解者がまだ少ない現代、あからさまに現れることは時期尚早でしょう。
しかし、そのシグナルは感じ取って欲しいのです。

宗教

現存の宗教は、人類の未熟さを証明する以外の何者でも有りません。
神とは生きとし生けるものの深層精神なのです。
いわば、生命の根本が神なのです。
分かりやすく説明しますと、神とは栗や海栗の中心部であり生命はその先端部なのです。
常識を覆すかもしれませんが、生命の根本が神なのです。
我々の定義する神とは、旧人類の定義する汎神論や一神論とも異なります。
汎神論の説くように一切万有が神との事でも、一神論の説くように唯一の神でもありません。
真実はこれらと近いようで、全く違うのです。

貴方の想像される一般的な宗教は人類の進化を拒んでいます。
これは忌々しき問題でしょう。
我々は現代の旧人類の宗教には賛同出来ません。
現代宗教に蔓延るものは私利私欲だけです。
しかし本来、全ての宗教は同じ根源なのです。
全ての宗教は1つなのです。
そして、全ての生命は1つなのです。
人類及び生命は等しく平等であり、深部では1つなのです。
その深部が人類の捉える神なのです。
旧人類の表現として言葉を作ると、『万有根源一神論』とでも言いましょうか。

各々が自分なりの解釈を止め、最初に他人のその発言の意図や原因を
理解できなくても理解しようとする意思が大切なのです。

全体としては人類の指針を知り、個人としては他人の違いを知り、
その違いを愛するようになれば宗教は自ずと必要がなくなる事でしょう。

宗教のこの先

我々は再三、宗教からの解放を訴えていますが、
だからといい旧人類が生んだ社会主義共産主義のように
宗教を破壊し撲滅せしめる行為とは根本的に違います。
極古代(超人類の言う祖星時代の太古)において
我々の宗教は科学と融合し宗教としての役割を終え、全く別の存在に昇華しました。

人生に無駄がないように、人類の歴史にも無駄はありません。
全ては過去の積み重ねの結果なのです。
だから過去を無碍にする人は、未来をも無碍にします。
歴史を蔑ろにするものは、歴史に蔑ろにされます。

現在の宗教の殆どは、確かに金と権力と欲望に染まっています。
そして、現在も影響力のある古くからの宗教は、それらを利用して大きくなりました。
とは言えど、宗教を巨大な悪と定義し、糾弾する行為は
果たして正義なのでしょうか?それは全く違います。

この世界の完全なる悪が“無”だけとの事実からも分かるように、宗教は悪ではありません。
むしろ、既存の宗教が如何に権力や金や欲望に利用されたとしても、
信者の中には、純粋な心を持っているが故に信じているとの事実あります。
そして、虚栄のためとはいえ、多くの貴重な文化芸術を保護してきました。

日本は世界屈指の先進国ですが、神道は世界屈指の原始宗教でもあります。
そして、これらが共存しあう世界は日本が最高峰といえるでしょう。
日本人はこのように既存の宗教を破壊せず、巧みに後世に残してきました。
我々の過去の宗教も神道に近い多神教でした。
神道には八百万の神々が存在します。

既存の多くの宗教は、多神教でも一神教でもない
万有根源一神論の元に一つに纏まり、宗教の枠組みを超える時に来ているのです。
宗教弾圧等の性急な革新は多くの弊害を生みます。
緩やかながらも万有根源一神論を世界に浸透させ、
宗教を一つにまとめることの方が、人類にとってより多くの幸を生み出します。
その時になってやっと、宗教は宗教でなくなるのです。

悪魔

悪魔とは一体何を示しているのでしょうか?
一神教である宗教は、悪魔も神が作り出したものと説いています。
この考えは、あながち間違ってはいません。
悪魔は外に存在するものではありません。
悪魔とは人の心に巣食う闇なのです。
具体的に定義しますと、無への欲求心です。
生命は常に有への欲求心を持つことで自己のアイデンティティーを確立してきました。
生命自体が有なのですから無は避けるべきものあり、
それと同時に生命には完全な無が存在しない事を意味しています。
つまり、意思を持った完全で絶対的な悪魔は存在しないとの事です。
破壊、殺人、暴力は全て無への欲求心が起こすものです。
我々には、これら無への欲求心が存在しません。
より高度な存在な筈の旧人類が、同族を殺めるのは相反する無への欲求心が起きているからです。
これは何故起こるのでしょうか?
それは、現状に不満を持っているからなのです。
では、その気持ちを無への欲求ではなく有への欲求へ向けられないものなのでしょうか?
そもそも何故、無への欲求は無くならないのでしょうか?
それは、旧人類社会のシステム自体が闇を背負っているからなのです。
この闇とは一体何であるか、私の様々な話しを聞いて頂ければ何れお分かりになられる事と思います。

悪魔崇拝

宗教は有への道であり、我々は無への道を説く行為を宗教として定義しませんでした。
ご存知のように、キリスト教や多くの宗教は
既存の宗教を悪と定義して弾劾してきました。
現在、悪魔と定義されるものもキリスト教によって駆逐された異教の神々に過ぎません。
サタンにしても、イエスの時代では“遮るもの”との意味しか持っていませんでした。

他の例えとして“意を異にするもの”の意味しか持っていました。
それらを、悪魔と定義したのは何故でしょうか。
要は、自分と意見を異にするものの存在が許されなかっただけなのです。
サタンを悪魔として思想弾圧し、己の宗教概念と意を同じくするものだけが救われ
神に近い存在と洗脳する行為は非常に簡単です。

日本は八百万の神々が住まう国であり 今も惟神の神道を守っていますが、
それでも悪魔とまでは表現されなくても、妖怪や物の怪として定義される存在があります。
だからといって、これら存在を撲滅せしめる事は殆ど無く、共存の伝統が受け継がれてきました。

一体、一神教は何を齎したのでしょうか?
一神教は、過去の魔女狩り裁判や異端審問や十字軍遠征を持ち出すまでも無く、
昨今のイスラム原理主義による行為を持ち出すまでもなく、多くの殺戮と差別と迫害を生みました。

グノーシスは我々の意志に近い概念を有していましたが、それすらもキリスト教は悪魔信仰として弾劾しました。
これら相反する宗教を悪魔崇拝と定義し糾弾する行為は、果たして正しいと言えるのでしょうか。
キリスト教徒がそのように定義するのであれば、
我々はキリスト教悪魔崇拝を行う悪魔教と定義し、
超人類であったイエスまでをも悪魔として糾弾しなければならなくなります。

現在、既存の宗教が弾劾する悪とは、
偽りの正義が生み出したものであり、実際の悪とは全く異なります。
大宗教により悪魔教と定義されているのが、
迫害された宗教との事はお分かりになられたと思います。

それとは対照的に、悪魔的な行為を行う旧人類の定義するところのカルト宗教が存在することも確かです。
殺人や暴行は悪です。そして、それらを奨励する宗教には無への欲求があります。
集団自殺を奨励する宗教、殺人を奨励する宗教、
それら宗教の欲求が無、即ち悪であっても真の宗教となるには、有の思想への転化が必要です。
キリスト教は多くの罪もない人々を虐殺してきました。
イスラム原理主義は正義の名の元に多くの人々を虐殺しています。
このように双方共、同じ行為をしてきた宗教であり、お互いを責める権利は有していません。

何故、旧人類は自分と意見の相容れない存在を悪と定義し、糾弾したがるのでしょうか。
そういった糾弾行為こそが、悪への道を生み出しているのです。
相手に悪との烙印を押すことは非常に楽で好都合な行為ですが、
自身の精神的価値を貶めているとの現実を直視するべきでしょう。
他人と意見が違うことが、他人と行動や外見が違うことが悪なのでしょうか?

旧人類が誤った悪の定義、宗教の定義を見直さない限り、
この世から悪への欲求も永遠に消えない事でしょうし、宗教も権力と矛盾に執着し続ける事でしょう。

光ある限り闇は在る。それは、当たり前です。しかし、その比喩は現実とは違っています。
闇や暗黒は無ではありません。闇も有なのです。無には光も闇も存在しません。
無は、即ち無であり、無こそが唯一無比の絶対悪なのです。
存在の対称軸が無である限り、存在が存在で無くならない限り、無も無いのです。

悪魔を求める信仰とは、無への執着です。
悪魔とは、人の心に巣食う無への欲求です。
この現実を比喩としてではなく、旧人類全てが気付かれる事を願います。

欲求

我々の欲求解消として、宇宙の真理の解明や歴史探索や人類の精神向上策があげられます。
貴方方には、面白みのない解消方法だと思われるのでしょうが追究心や探究心には底が在りません。
世界は広く、人類は儚い程小さく無知です。
まだまだ我々にも調べるべき対象は無限に存在します。
そして、それが如いては人類及び自身の向上にも繋がるのです。
また一見無駄にみえる行為でも、自身の探究心が満たされる事の喜びは大きいものなのです。
この点では、人類の趣味と似ているでしょう。

我々からすると貴方方の欲求解消策こそが面白みの無いものに感じますが、
それは価値観の問題で仕方のない事であると認知しております。

しかし、その貴方方の欲求解消策が地球や人類をここまで落としめました。
他人を卑下し優越感を感じる事により欲求を解消はしていませんか?
これは原始的で最も恥ずべき解消方法です。
優劣を付ける競技は憂うべき存在です。

社会

我々の社会は、超共産主義と例える事が出来ます。
勿論、現状の中国や北朝鮮共産主義では御座いません。
我々の社会主義は、フィンランドの国家体制の
遥か延長線上に存在する主義と表現すれば良いでしょうか。
そこには国家が存在せず、個々が個々の責任で存在しています。

かといって、特定のコミュニティーに閉じこもることはありません。
違う価値観を認め合う社会ですから、特定の同じ価値観同士が引き篭もる行為は
精神の停滞を意味するとの事を人々が理解しているからです。
そして、引き篭もりが無理解の増徴と協調性の退化を引き起こす事も理解しています。
我々の社会の人々は非常に個性的で豊かな生活を営んでいます。
自由でありながら、財産を享有しながらも個性を尊ぶ社会なのです。
我々の社会を、無機質な未来社会や共産社会として思い描かないで下さい。
法律も簡素化されています。
善の洗脳が進んでおり精神と肉体の病を克服し、
貧富も無い世界での法律は至ってシンプルなものです。

子孫は男女の交配で残します。
我々はまだこの形式を残しています。
更に進化した生命体は家族の様式も保っていませんが、
我々はまだこの考えまでには至っておりません。
我々の社会は全て計画出産で管理されています。
その為、重度の身体障害や知能障害の方は存在しません。
これは自然に逆らう行為だと旧人類は思われるでしょうが、
それは旧人類が病気や怪我を人工的に治療し克服する行為と何ら変わりがありません。

我々の社会では犯罪はほぼ存在いたしません。
競争は己のみでもあり 犯罪の原因は貧困や精神病や暴力遺伝子や
教育であるとの事も分かっており、解消しております。
我々の社会には、その根源は存在致しません。
現代でも、地域や経済的理由や教育が良く
精神病を患っていない人々が犯罪を行わない事からも、撲滅する事は可能です。
全ての人類が同じ環境になれば良いだけなのです。

旧人類には想像出来ないかもしれませんが、そのような世の中が存在するのです。
理想論的社会では決してありません。
現実社会として実在するのです。
旧人類が過去の人類以上の存在になるには、
現状では遺伝子操作しか方法が無いのかもしれません。
自然界の突然変異に頼るには余りにも時間が足りない為です。
しかし我々の間でも未熟な旧人類による遺伝子操作に対し賛否両論なのが現状です。
また、過去の旧人類への干渉による過ちにより
我々が人類に対し直接指南する事に現状として躊躇しています。

悲観論

悲観論を述べる発想こそが旧人類なのです。
我々は新たなる進化の土壌と感じるでしょう。
悲観論者は自身の発言に責任を持たなければなりません。

人類は何度も崩壊の危機を迎えました。
しかし、何れにおいても変化しつつ生き延びてきました。
それは偏に生きる気力とプラス思考の賜物でもあります。
旧人類は自己保身能力が高くても、共栄共存能力は余りにも低すぎます。

旧人類よ、目覚めなさい。 流言蜚語に惑わされてはいけません。

カタストロフィーは惑星や自然災害などの外からだけでは断じてありません。
人々に巣食う心の闇や不安や妬みからも齎されます。
仮に人類だけが滅びるとしたら、人類が原因でしょう。

脳の活動と睡眠

我々の脳は、ほぼ100%活動出来ます。
その場合では、旧人類の表現する超能力が活用出来ます。
また、1日の間に3時間は50%の脳が眠りますが、残りの50%は活動しています。
しかし、その間は旧人類と同じ位の脳の活動しか出来ないため
睡眠まではしませんが安息しています。
その為、我々には睡眠も夢も興味の対象となっています。

人類にも睡眠が出来ない人間が居ますが、病気と判断されており
睡眠を必要としない我々は旧人類には考えられない存在でしょう。
では、熊は何故長時間冬眠が出来るのでしょうか?
熊からすれば、冬眠をしない他の哺乳類は異常に見えることでしょう。

また、地球上のキリンは立ったまま眠ることもあり平均睡眠時間も20分に過ぎません。
そしてノンレム睡眠の時間は2分程度に過ぎません。

超人類の身体及び精神は進化の過程で睡眠を必要としなくなりました。
とは申しましても、通常の脳の持ち主の旧人類が睡眠をしない事は不可能です。
宇宙には恒星を一つ以上持つ惑星もあり、そこで生まれた生命は睡眠を必要としない種が多数派です。
暗闇が無かったから睡眠する必要が無かったのでしょう。
または、暗闇が無かったから睡眠をする生物が外敵から逃れられず生き残れなかったのかも知れません。
例えが地球外にも及びましたが、これらも全て厳寒な冬が無いから冬眠をしないとの事と全く同じです。

精神病

現代日本人は、我々の解釈で70%が鬱病との統計も理解できます。
我々には鬱病を含む精神病は存在しません。
原因を究明し解釈し、その根本である環境を改善した結果、疾うの昔に克服しました。
人類は精神病に対し余りにも無知であり、未だに何ら改善策を見いだせられないでいます。
日本人の生活自体が、稀に見るストレスの温床なのです。
我々からすれば70%の鬱病患者とそれに準ずる症状のある日本人は病人です。
そして、その日本人の価値観からすれば我々は理解不能な病人に見える事でしょう。
殆どの旧人類は、我々を精神異常者と捉える事でしょう。
しかし、我々からすれば全くの逆なのです。
貴方方、現代人は未来人から見れば異常に見えますし
古代人からみても異常に見えることでしょう。
その逆もあることでしょう。
今の常識が未来の非常識になる事もあります。
今の非常識が未来の常識になる事もあります。

しかし、どちらが生命として豊かな心を持っているかは明白ではないでしょうか。
我々は精神病を含む全ての病を疾うの昔に克服しました。
自己保身の為に生きる旧人類にもかかわらず、
精神病を克服出来ないでいるのは悲しい事に自己欲求が邪魔をしているからです。

日本は、世界でも稀な鬱病発症に適した環境です。
教育・仕事・対人環境・生活環境、どれをとってもです。
妬み・嫉妬・恨み・不満もまた健全な精神状態ではなく、
我々はこれらの症状も過去に病気と判断しました。
故に、旧人類は殆どが病に侵されていると言えるでしょう。

競争

我々は争いを致しません。
スポーツも自己鍛錬のみです。
優劣や勝敗を決める事はありません。
争いや競争が人類の発展に繋がるなどとの発想は間違っています。
我々は争いを捨てても進歩発展しました。
これは偏に自己向上心と探究心の力によります。
しいて競争に近いものを挙げるとすれば、自身との競争でしょうか。
人類がこの考えに及ぶには、現代の環境では到底無理でしょう。

超人類が幼少期に何度も親から躾けられる事は、
相手の立場になり相手の話を聞き、相手の違いを理解せよとの事です。
非常に簡単な事なのですが、人類はこの発想を理解しても行動する事が出来ません。
競争社会に生き、他人を蹴落としても生き残れと
物心がついた時から教育されている旧人類には難しい事なのでしょう。
またそれを諭すべき宗教も教団の利益や強大化を望み、他宗教を認めようとはしません。

我々は現在、満ち足りた差別の無い競争も無い社会に生きております。
我々は自身に何ら不満はありません。
故に、他人の心を理解しようとする心の余裕も生まれるのでしょう。

我々の未来は、自己探求心の解明と他との共栄共存の為に存在します。
今、我々は精神的に健康体でありますが、
常に自己向上と探究心の飽くなき欲求が存在します。
旧人類からすれば到底理解出来ない欲求ですが、その欲求が我々を進歩させました。

分かりやすく説明致しましょう。
貴方方にも趣味はあると思います。
その趣味は全て他人との競争の為に行っているのでしょうか?
否、他人を介さない自己満足の為だけの趣味もあります。
我々の存在理由と、旧人類の趣味は似ているのかもしれません。
趣味より更に世界も広く壮大な研究でしょうが・・・。

自己向上心は貴方にはありませんか?
自分の国家を良くしようとは思いませんか?
便利で快適な生活をしたいと思いませんか?
趣味はありませんか?
他人を愛し守りたいという気持ちはありますか?

これら一部を取っても他人との競争無しで向上できるものなのです。
貴方方に必要なのは他人との競争ではなく他人との協調なのです。
それと自己探究心を開花させる時間と環境です。

我々は貴方方からすれば、学生や教授のようなものでしょうか。
生涯に渡り、探求の為に生きています。
しかし学生や教授とは異なり、生産性も伴っています。
日々、人類と自身の向上を行っているからです。

今は我々の発言を空想上の話としてしか理解出来ないのは、仕方のない事でしょう。
しかし、何れこの我々の発言が現実だと分かる事でしょう。
その時には、今より良い世の中になっている事を祈るのみです。

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